不吉な空気、はがれた手のひら。

   

浴室

前回「生活の終わりの臭い」に戻る

 

俺たちはダンボールをもらいに近所のコンビニに行き、その足でペットショップに向かった。まずは、犬のおしっこシートを買おうと思った。

 

「パパ、『1000円も』って言ってたね…」

 

俺と同じことを妹も感じていた。俺は「そうだな」としか言えない。

 

「どうしたらいいかな…?あの家がなくなったら、もうあそこには置いとけないよ」

 

それは俺も先ほどから考えていたことだった。祖母はもう犬の面倒は見られない。母のアパートでは犬を飼えない。妹の家ではこれ以上は無理だ。妻は動物の毛アレルギー。まだ小さくて分からないが、きっと娘もそうだろう。犬を連れて帰ることはできない。今は父が1日に1回実家に顔を出して犬を見ているが、それももう長くはないのだ。

 

「ペットホテルか動物用の施設…それとも……安楽死……」

 

その場の誰もが考えていても口にしたくなかったはずの言葉をあえて口にした。誰もいない廃墟のような場所にケージに入れられ、ひとりぼっちで過ごす犬。1日1回だけ来る父が、他の生き物との唯一のつながり。犬と人間とは感じ方は違うかも知れない。でも、俺なら耐えられない。俺は妹に話しかける体で自分自身に言い聞かせた。

 

「あの状態で幸せなはずがない。でも、今の俺たちではどうしてやることもできない。もし、何らかの方法が見つからなかったら…俺が判断するよ」

 

妹は「そうだよね…ママにはやらせられないよ」と呟いた。お前にもやらせられない、と思った。

おしっこシート

 

おしっこシートを買って、ダンボールを抱えて、家に戻った。おしっこシートを見た母の顔がパッと明るくなった。父は「ごめんね…」と恥ずかしそうに言った。心がキリキリ痛む。

「今日は大体こんなところかな?」周りを見回しながら軽く言うと、何となく今日は終わりの雰囲気になってきた。きっと、みんなここを出たいのだろう。

普段であれば夕飯を一緒に食べようという話になるはずだが、その日はそのまま解散となった。俺は1時間半の道のりを、ただボーッとして帰った。

家に帰ると、すぐにシャワーを浴びることにした。あの不吉な空気をここにまで持ち込みたくない。そんなことを思う俺は、きっと冷たいのだろう。それでも、ゆっくり時間をかけてシャワーを浴びる。石鹸で全身を丁寧に洗う。

家族みんなで笑いながらごはんを食べたり、酒を飲みながら語り明かしたり、歌いながら麻雀したり、そんな楽しい思い出の数々が、いくら努力してもあの廃墟と全く重ならない。

 

突然、どうしようもなく悔しくなった。

 

もし俺がもっと稼げていたら。もっと金があったら。

 

でも、俺はただのヒラのサラリーマンで、自分自身の住宅ローンを抱えている。父の借金を俺のローンの上に積んで、俺が返すことを考えなかったわけではない。でも、それをやったら俺の力では今の生活を守れなくなる。そもそも、その程度の実力の俺にダブルローンを組ませてくれる銀行はどこにもなかった。

だから、俺は何もできず、母があの家を出て引っ越す手伝いしかできなかった。今もまた、何もできずに実家を失おうとしてる。仕方がなかった、と自分に何度も言い聞かせていたが、本当にそうだったのだろうか…という思いが消えてくれない。

親父が人知れず苦しんでいるとき、俺は何も知らずに司法浪人をしていた。親父がもう潰れる寸前のとき、俺は何も知らずに自分のマンションを買った。もう家が無くなるっていうとき、俺は「仕事は順調!これで少しは安心だ」なんてバカみたいに思っていた。

 

申し訳ない…。情けない…。

 

涙があふれてきた。抑えようとしても止められない。

浴室

 

風呂から出て身体を拭いていると、手の平と足の裏が白くなっている。なんだろうと思って軽くこすると、ズルリと皮が剥けた。痛くも痒くもない。ただ、皮がめくれた。昨日は何もなかったのに。

爪でひっかくと、次から次へと皮が剥がれていく。左手の皮が一枚なくなった。別になんとも感じなかった。

 

次回「迷いと怯え、そして最後の日」に続く

※ 暗い話ですが、引き続き書いていきます。あと3話くらいです。
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