生活の終わりの臭い。

   

スリッパ

前回「廃墟」に戻る

 

「こんにちは…」

 

努めて冷静に振る舞いつつ、廊下を先に進むと、父が居間から出てきた。「おかえり」とは言わなかった。そこに含まれる意味が心に重しをかける。


「先にやっててくれたの?」

 

あえて明るく挨拶をして、スリッパを履いて上がった。そのときまた気がついた。俺にスリッパを履く習慣はない。ここに住んでいた頃、スリッパを履いたことなどなかった。今俺は、それを迷いなく履いた。

スリッパ

 

居間の空気は澱んでいた。入れ替えられない空気、カビの臭い、施設にいる認知症の祖母が連れて行けなかった犬の糞尿の臭い、それらの混じった臭い。俺たちに気がついたケージの中の犬は、白く濁った目をこちらに向けて、力なく尾を振る。

 

「来たよ…」

 

小さく呟いて犬の頭を撫でる。以前飼っていた犬の晩年と同じ感触。ゴワゴワして冷たい。犬の横には糞尿でボロボロになった新聞紙。

 

「犬のおしっこシート、1000円もするから…」

 

父が呟く。1000円も。それが今の父の現実。

俺は聞こえなかったフリをして、居間に目を向ける。ダンボールが積み重なっている。

「これは?」と聞くと、「アルバムとか、卒業証書とか、そういうもの」と父が答えた。ダンボールを開けて確認しようかと思ったが、アルバムの中身を見る気になれない。昔の良かった頃を見られない。今はいい。

 

「上にも荷物ある?」

 

軽く声をかけながら、妹と二階に向かう。二階には俺の部屋、妹の部屋、両親の部屋がある。

俺の部屋には何もない。結婚するときほとんど全て持っていったし、この家がもう無くなると決まったとき、ベッドなどの大きな家具類は処分されたからだ。ガランとしていて、生活感は全くない。それが逆に俺を安心させる。居間はまだ生活の臭いが残っている。ただし、終わりの臭いだ。その方が辛い。

俺の部屋、妹の部屋、両親の部屋を回り、三階に上がった。ここは父が経営していた塾の教室だった。部屋にはまだたくさん本がある。テーブルにはペンが置いてある。ここはまだあの頃とそれほど変わらない。変わっているのは、止まったまま動いていない壁掛け時計くらいだ。でも、そんな小さな変化がじわりじわりと心を締め付ける。

最後は地下だ。ここはかつて、パソコン部屋兼ゲーム部屋のようになっていた。中高生時代は、友達を呼んで対戦ゲームで盛り上がったものだ。大学時代は、友達や先輩後輩と夜通し酒盛りをした部屋でもある。ある意味、この家で一番バカ騒ぎを見てきた部屋だ。でも、今はひっそりと静まり返っている。天井の隅には蜘蛛の巣が張っている。一体どこから入ってきたんだろう?

 

「これは、ゴルフバッグか?」

「うん、これだけは何故か捨てられないって、パパが…」

「だって、もう何年もやってないだろ?必要ないだろ?」

「そう思って捨てなよって言ったら、キレちゃってね…」

 

サラリーマン時代の父はゴルフがうまかった。セミプロ級の腕前だったらしい。中学時代、打ちっ放しで教えてもらったこともある。これは、そのときのゴルフクラブだ。ドライバーの先にかぶさるカバーに見覚えがある。

あのときは豪華に見えたゴルフクラブとゴルフバッグ。今は違うものに見える。例えば、「ゴルフはじめるならこれあげようか?」と会社の上司に言われても、きっと断るだろう。

結局、俺たちが片付けるべきものはほとんどなかった。ほとんど捨てるもの、捨てないといけないものばかりだ。妹と居間に戻る。手持ち無沙汰で部屋の中をうろつく。どこにも座る気になれない。帰りたい。ここには居たくない。

 

「ちょっとダンボール貰ってくるよ。ガムテープとかも買ってくる」

 

理由を見つけて、妹と家の外に出た。出た途端、彼女は大きく息を吐いた。俺も同じように深呼吸する。ずっと息を詰めていたことに気がついた。

 

次回「不吉な空気、はがれた手のひら」に続く

※ いつか書こう書こうと思っていた話です。お付き合いいただければ嬉しく思います。
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